―――どんな少女時代をお過ごしでしたか?
小学生で終戦ですから、ひどい時代もありましたが、いわゆる東京大空襲は遠くの空が朱に染まるのを目白の実家の窓から眺めていただけでした。その後、山の手の空襲の際も、発見が早くて類焼は免れました。戦後の物が無い時期にもさして不自由を感じることがなかったのは、そのおかげだと今でも幸運に感謝しています。特に裕福でも貧乏でもありませんでしたが、温かな親の愛に包まれ、のんきで幸せな子ども時代を送ってきたように思います。
小さな頃は、本屋のお店番になりたいと思っていました。なぜなら、父は「よいものに触れなければ、よいものが解るようにならない」という考えの持ち主で、読んでよい本がかなり限定されており、漫画はもちろん、女の子に人気のあった少女小説もすべて禁止だったんです。もし本屋のお店番になれば、「一日中好きな本を遠慮なく読める!」と思って憧れていたんです(笑)
―――学生時代に夢中だったことは?
中学から高校時代は数学研究会に入って、虫食い算とかピタゴラス定理の証明とかに夢中でした。数学教師だった母の影響か、私は昔から数学大好き人間なんです。答えが明確ですからね。逆に英語には割り切れないもどかしさがあって、昔は親しめませんでした。大学でも第一外国語にはドイツ語をとっていたほどですから。
ちなみに、主人と知り合ったのも“数字”がご縁。たまたま田舎のバス停で、なかなか来ないバスを待っているうちに友達になった、当時大学院生だった主人と、切符に打ってある数字を使ったゲームを一緒にやったんです。「ばかげたゲームにあれほど夢中になって取り組む女の子を初めて見た。こいつとだったら人生を一緒に楽しめそうだなあ」と思ったそうなんです(笑)。
―――好きでなかった英語の道に進まれた理由は?
大学卒業後は学際的な団体で専務理事の秘書をしていたのですが翌年結婚し、夫の留学に同行して渡米するため1年で退職しました。ワシントン州立大学のコミュニティカレッジで勉強し、ここで初めて学校英語とは違うコミュニケーションのツールとしての英語に出会いました。帰国後はずっと専業主婦でしたが、当時は英語の話せる英語教師が少なかったため、ちまちまと英語を教えたりもしておりました。TOEICは970で、英検1級もありましたが、出身が地理学科のため英語の教員免許状はなかったので、通信教育で英語科の教員資格だけを取得しました。 スクーリングで、今まで育ってきた学者ばかりの環境とは異なる、いろいろな職業や特技を持った方々と触れ合う機会を得て、周りにいる人々に対して今まで以上に尊敬の念を抱くようになりました。また、この時に出合った先生が、英語を非常に分析的に読む方で、数学脳の私が英語を好きになる大きな契機となりました。
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